残暑
さくらももこが亡くなったというニュースを聞いて受けたショックが 少し時間をあけてかなしみに変わってきている。
今思えば彼女の根本にある、すこし鬱屈している部分と、とてもロマンチストな部分がたぶんすごく自分自身に共鳴していて
だからこそ、当たり前のように漫画もアニメも何度も何度も台詞を覚えるほど読んでいたし エッセイを読んで本当に声をあげて笑ったんだろうな。(本を読みながら笑っている私を見ていた母に突っ込まれるくらい)
新聞やニュースでの、ざわざわとやけに賑やかな感じのする報道に違和を感じる。
ほのぼの、というのは表面で だからと言って意地悪な、というのは一面で 達観して哲学的な、というのも一面に過ぎず。
ひとは、作品は、二律背反でなし 簡単に言葉で把握できるものでもなし
闘病の事実を皆知らされていなかったことからも、静かに送って欲しいだろうなとすこし、思う。
さくらももこが亡くなっても、アニメのちびまる子ちゃんは存続する。ということで これはとても偉大なことだなぁ、と思う。
作者が不在であっても、キャラクターは生きて次世代へ受け継がれる。すごい仕事だと思う。
そうした大きな仕事っぷりと、あの独特なギャグセンスと、世界を見る小さき者の視線と、
それらすべてを超越するような 扉絵の細かなアラビア風の色彩や描写など。
この細やかな中にひとつひとつ秩序があり それを秩序だて繊細な仕事を施すという その揺るぎない熱情のようなものに、私はこのひとをとても感じ とても、泣きたいような気持ちになる。
決してセンセーショナルなメッセージでも、ある種暴力的な衝撃でもないのだけど
あの緻密な秩序の中心にちびまる子ちゃんが据えられているということ
曼荼羅のような、さくらももこのその世界に、政治や宗教や金や恋愛やを大きく訴えない、日常の延長に収束する、その世界に、
一緒に見ていた家族の記憶も重なり、泣きたいような気持ちになる。のだろうな。
ある一定多数の、まる子だった女の子たち、が 今大人として社会で生きている。
SNSに溢れる、まるちゃんエピソードや漫画の一コマたちにそれを感じる。
作者の死は、大人になった(はずの)まる子たちの、まる子だった部分をすごく揺らがせたのだろうな。
何が言いたいわけでもなし、気持ちを落ち着かせたいだけなのでとりあえずここまで。