1月6日終わりかけ

早速体調不良。

胃もたれ。飲み過ぎ食べ過ぎによるものと思われる。たのしみたい!を詰め込んだ胃がぺしゃんこになっているのだな。

こういう夜は布団がしあわせ。面白い本のストックも大丈夫。冷蔵庫の上に積み重なるタッパー。健康と安全な幸福も、ストックできたらよいのにね。

新年

お正月休みは特に何もせずぼんやりしていたので本日より仕事始め。

 

今年はできるだけ日記をつけて行きたい年です。

 

お風呂での読書もどれだけできるかな

書初め川上弘美の「晴れたり曇ったり」というエッセイ

一度ブックオフに売ってしまった高野文子の「るきさん」を購入。(同じ本を二度買うのは初めてです)

 

川上弘美の、人生のスランプについて書いた「へへん。」という文章にうなづきながら。

 

仕事をしていても休みたい休みたいと思うし、何もしないお休みが続けば気持ちは不安定になるし、バランスの悪い身体である。このアンバランスでこの先も生き続けるんだな、いつもなにか足りないと思って いつも選択しなかった方の結果を思って(たとえばお昼ごはんスパゲティじゃなくてお蕎麦にしてたら。くらいの選択) 生きるとは選ぶことと見つけたり。

その自分の選択を肯定するために、SNSってあるんだろうな。人びとの精神安定のために。

 

 

「今年はあと何回スランプが来るのだろうと思いながら、アオマツムシの声をじっと聞く。

虫の声は、聞いているうちに聞こえなくなる。

耳一杯になってしまって、何もないのと同じになる。」

(川上弘美 晴れたり曇ったり )f:id:aamemiya720:20180106122036j:image

伸びるほど彼のひとの泣くクレマチス

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三鷹駅の中のお花屋さんで、クレマチスを買い求めた。

和名は「鉄線花」。

その名から納得のできるような、くにゃりとしたシルエットでどこまでも伸びる。

葉、枝、時折つぼみ、先に咲く花。

どこへ行くのかわからない、自然ながら不自然なるうつくしい姿。

 

 

かつて、一度だけ見たことがある東京事変のライブで

(「スポーツ」のライブだった。アルバムの曲をくまなく、機械的なほどに正確に演奏するというライブだった。)

椎名林檎が「生きる」という曲をうたった姿を思い出した。

 

会場には、たくさんの女の子たちが。

憧れのひとの姿を目にして涙をしながら彼女の名をしきりに叫んでいた。

もはや、呼んでも届かない場所だから、(だけど)叫ぶ。

 

このひとが十代の少女とき(自身の名前で生きていたとき)、このひとはこんな風に、遠い憧れのひとを求めて呼んでいたであろうのに。

椎名林檎というひとが(実在しない、そんなひとが)

作り出したこの世界とは。

 

林檎は、名を呼ぶ叫びの中で

「身体と心が、離れてしまった。」

と、自らの身体をくにゃりと曲げて

立位の前屈の姿勢で歌い始めた。

 

その不自然な姿勢は

しかし異様なうつくしさを湛えていた。

心細いような声は

しかし、叫びの中で一筋の線になって、曲の終わりへと力強く向かっていった。

 

 

彼女のうつくしさは儚さ、

それを裏打ちするような、ずるい強さ。

女の人は皆、泣きながら生きながらえる。

泣きながら、さいごにはひとりで、終わらない終わりを、生きる。

 

 

 

クレマチス落つノーウーマンノークライ

初夏

全く更新をできていないものの、ぽつぽつ作った俳句がいくつかあったのでまとめておく。

 

 

百圓の硝子の花器の芍薬

 

亡きひとと酌み交わすけふの初鰹

 

五月雨に嫁ぐひと滲むワイパーや

 

このひとわたしがいなくちゃ。と遠雷

 

台風逸れて七年前のブルゴーニュ

 

 

一句目。あまりにうつくしいので、花器もないまま買ってしまった芍薬。咲き切る、ということ。

二句目。初鰹の季節には、鰹を愛した祖父を思い出す。お店を開いたよ、と告げたら何と言っただろうか。

三句目。「プレバト」の「梅雨とワイパー」のお題から。

四句目。惚気と脅迫は紙一重だと思う。

五句目。主人の誕生日。台風が直撃した日の営業明け。深夜のビストロにて。

 

 

 

 

最近俳句が愉しい。

昔から、鑑賞するのは好きだったのだけど、作ってみて推敲するのもおもしろい。

お酒を呑みながら気まぐれにぱらりと句集を開くのもおもしろい。

 

俳句は、感性というよりももっと着実で

技術や理論の積み重ねが根本的にとても大事であるように思う。

 

ずっと詩を書きながら、

しかし、でも書くべき「必要に迫られた何か」をずっと見つけあぐねていた学生時代の私が、

俳句という形に出会っていたら人生は変わっていただろうか。とふと思う。

深夜のお風呂場で。規則正しいシャワーの音に打たれながら。

文章を書くひとでありたい、と未だに思っていただろうか。とふと。

 

 

 

 

すべてはバランスの問題です。

今はすごくよい。

「書くべき何か」として、お酒のこと食べるもののことという本質を手にできたと思うので。

人生は長いから。どうにでもできる。何にでもなれちゃう。

 

名残の空ピザ待ちビールぬるくなり

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パタパタとした2016年も、なんとなく納まり 久しぶりのお休みとなった大晦日は意識的ではないのだけど、なんとも自堕落に。

 

昼過ぎに起きると、主人は朝早くから起きて家のお酒を飲み尽くしていた。

スーパーに買い物に行くのも着替えて外に食べに行くことさえ面倒で

ジャンクの極限、宅配ピザスマホでオーダー。

(電話をするのも面倒)

安心するも束の間、家にビールがなかったので、近所のコンビニまで買い出しに歩く。

(ビールを買いに行くのはふしぎと面倒には思わない)

 

大晦日の空気というのは独特

慌ただしさが全部この日に寄って、最終的にすべて帳消しにされるような

みんなバタバタしているので、すっぴんも昼酒も許される(ように感じる)

 

昼下がりの影。

名残の空とは、大晦日の空をあらわす季語だそう。

こぼれたものはすべて、去年へ置き忘れよう

 

紅葉のごとき帯締め直し午後

季節が過ぎ過ぎ 

秋深まりて。


ひとつの目標を達成しました。

目標の達成とは、さらなる目標のスタートに過ぎず。

到達は始点。完成は崩壊。終わりは始まり。


繰り返し繰り返し、つづいてゆくもの。を、日々引き締めるのです。

昼麦酒往くひと来るひと見下ろして

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忙しさと突然の暑さにぐったりな一週間を抜け、やっと休日。

阿佐ヶ谷のイタリアンでいつも通りにツナと茄子のトマトソースのランチセットを頼み(もしくは、ベーコンとオニオンのアマトリチャーナの二択です。というかこの二種類しか食べたことがない。)

あ、とりあえずハートランドを、と伝えたときの私の身体の力の抜け方は、重いリュックを下した後のようでもあり。

(写真は関係のない、2年前の阿佐ヶ谷の七夕まつりのときのコロナとサッポロ)

 

麦酒、は夏の季語だそうです。

なんて気分をそのままに伝えられる季語なのだろう。

ただ、ビール にしろ、むぎしゅ にしろ、言葉が3文字しかなくて難しいなと、黒ビール  とか、麦酒かな とか思案していると

メールをしていた主人が「昼麦酒」という完璧な言葉を返信してきた。これも歳時記に入れるべきだなと思いました。

 

阿佐ヶ谷のお店は二階にあるので、ガラス戸から外が見えるのですが

気分はオフィス街のサラリーマンたちを見渡す想定だったのだけど、阿佐ヶ谷の街はなんだかもっとのんびりとしていて

日が午後へ転がるねむたい気分の方がぴったりくるように感じました。

 

 

残り二センチのビール泡まどろみて